三番隊隊長が怖い。
昼間の屯所の一角、隊士たちの待機部屋前を通りかかると、そんな言葉が聞こえた。沖田はぴたりと足を止める。
三番隊と言えば最近新撰組に入ってきた謎の男、斎藤の隊だ。いろいろと不穏なにおいを纏う男だが、腕はたつし性格にクセもない。沖田は気に入っていた。
新撰組の隊を預かる者が、穏やかであるはずないだろう。斎藤は強面であるし、体躯もいい。はたから見ても只者ではないとわかる。そもそも新撰組隊士だというのに軟弱な言葉はよろしくない。
「なにぬるいこと言うとんの」
部屋を首を突っ込めば、ひいと悲鳴が上がった。少なくとも斎藤が顔を出してもこんな反応はしないはずである。あの男は顔に似合わずゆるいところがあるのだ。
そんな斎藤を怖がるというのも、なんだかおかしい気がした。理不尽に隊士を叱りつけたり、権威をひけらかす男でもない。沖田は顎を掻きながら小首を傾げ、詳しい話を聞くことにした。
遠くの寺の鐘が聞こえた。夕方の鐘を合図に、見廻りに出ていた隊は交替に屯所まで帰ってくる。
見廻りから戻って来た三番隊は異様な空気だった。隊長の斎藤の険しい表情に加え、隠しきれない殺気がある。危なっかしい。そんな印象を持たせる剣呑さに、沖田はらしくないと目を瞬かせる。
この状態の斎藤と手合せはさぞ楽しいだろう。背筋が震える一触即発の試合。試してみたいと狂犬の血が騒ぐが、昼間三番隊隊士に泣きつかれたのを思い出す。
最近の斎藤は怖い。常にだれかを殺そうとしている。そんな気配がある。そんなことを言っていた。
ここ最近は三番隊とともに見廻りもしてないし、顔を合わせることも無かった。斎藤の変化に気づかなかったのだ。
知り合ってからそう時間は経ってないが、斎藤は誰彼構わず人を斬る人間ではない。必要とあれば刀を抜くが、避けられるのであればそれにこしたことがない。そんな、新選組にはぬるすぎる男である。
その斎藤がこんなにも殺気を隠さないというのは異常事態だ。危なっかしいだけで、まだなにも被害はないという。しかし、このままでは神経衰弱になると隊士が弱音をこぼしていた。それくらい慣れろと頭を叩きつつも、こんな変化には興味がわく。どういう心境の変化なのか気になって仕方ない。
「はじめちゃん」
「……沖田か」
声をかければ普段以上の低い声で返された。が、そこに悪意も殺意もない。あくまでも空気だけであって、それを八つ当たりするつもりはないらしい。ただただ機嫌が悪いわけでもないということだった。
「ちょっちこっちきて」
私室に呼び込む。斎藤は特に文句もいわず従順だった。それでいて突き刺すような殺気を纏っているのだから、隊士たちが怯えるのも仕方ないといったところか。
むつりと口をへの字にして、眉間には跡がつきそうなほど皺をよせている。普段と同じ表情のようで、その鋭さは尋常ではなかった。誰か親しい者でも死んだのか。この世の中だ。そんな話は毎日のように生まれては雑踏の中に消えていく。内容によっては手伝ってやらんこともないと、沖田は胡坐をかいて背筋を伸ばした。
「最近、はじめちゃんがやたら物騒な顔しとるって聞いてな。なんかあった?」
「……ん?」
きょとりと斎藤が目を瞬かせる。思い当たることが無いと言った様子だ。自身が殺伐とした空気を纏っているなど自覚していなかったのだろう。
「そうなのか?」
「俺から見ても、結構怖い顔しとるで」
「ふむ……」
「なんか面倒なことに巻き込まれとる?それとも、誰か死んだとか?」
新撰組のなかで起きたことならば情報を共有するべきだし、斎藤個人のことでも仕事に支障がでるならば聞いておいたほうがいい。普段ならばここまで世話をやいたりはしない。だが、斎藤のことになると、なんだか面白そうな気配がして、首を突っ込みたくなってしまう。
「……あ」
「うん?」
「いや、その。……心当たりはあるんだが、気にしなくていい」
「いやいや。そこまで危ない顔しといて気にしなくていいっちゅうのは無理あるわ」
「そんなに酷い顔をしているのか?」
鏡なんて女が持つようなものは持っていない。斎藤もそうだろう。確かめようがない。ただ、沖田が悪戯にそのようなことを言うとは思えなかったらしく、斎藤はすんなりと認めた。
「自覚はなかったんだが、顔に出ていたらしいな」
「隠しごと向いてないんちゃう?」
「隠しているわけではなかったんだが」
それでも考えていることが顔に出ているのは恥ずかしいらしい。斎藤は誤魔化すように頬をかいて息をついた。
「ここから少し離れたところに別宅をもっていてな。そこで畑をやったり鶏を飼っていたりしているんだが」
「ほお」
初耳だ。そういえば斎藤はあまり屯所で寝泊まりしていない。ほとんどの隊長は移動が面倒だからと屯所の部屋で過ごしているが、斎藤は仕事が終わればすぐに姿を消す。
贔屓の女がいる。そんな下世話な噂も聞こえるほどだ。実際は畑仕事や家畜の世話のためだったのだろう。
「最近獣害にあってな。畑だけならまだよかったんだが、鶏をやられてしまって」
「あー」
寒くなるにつれて獣害は増える。越冬のためだ。この近辺でも熊がでたと聞いた。厳しい冬の前だ。食事を備える必要があるのは人も獣も変わらない。そこにあるから食べる。獣たちに人の道理など知ったことではない。
「流石に殺意が湧いてなあ」
疲労いっぱいの息をつく斎藤に、沖田も納得するように頷く。
「なるほど」
鶏ごときで、と思うものの、斎藤からすれば貴重な食糧源だったのだ。食われてしまえば穏やかではいられない。道理で危険な気配をしているはずだ。獣害は農家だけがあうものでもない。備蓄していた食料が狸にとられたと、近くの茶屋が騒いでいた。
「対策とかしとんの」
茶屋の主人は穴倉を作って狸の侵入を防いだと聞いた。畑となると対策も難しそうだ。
「犬がいるから追っ払ってはくれるんだが……うちの犬が噛みつかないのを知ってるんだろうな。無視して狙ってくる奴がいるらしい。見張りをしたいが、俺が夜勤のとき狙ってくるようで」
「はあー、頭がええなあ」
烏だとか狼は知恵が働くという。この賢さも斎藤の苛立ちの一つのようだ。
「なににやられたかわかってんの?」
「たぶんキツネだと思う」
「キツネかあ」
昔から人を化かすと語られるほどだ。知恵はありそうである。
「キツネはまずいというしな。狩る気になれない」
「あ、そこなん?」
拳銃も扱える斎藤なら狩猟もできるはずだ。しかし、ヒト同様に無暗やたらと殺すのは信条に反するのか、駆除は考えてないらしい。
「猪とかなら穴でも掘って対策できるんだが、キツネだからなあ」
「じゃあやられっぱなしっちゅうわけか」
「くそ……」
斎藤の目つきが険しくなる。怒りがぶり返したようだ。
「キツネって夜、活発になるんやったっけ」
「ああ。被害も夜しかおきない」
「んで、はじめちゃんが夜勤のときはでてこんと」
「そうだ」
私事で隊士をつかうわけにもいかない。いっそのこと畑を諦めてもいいが、飼い犬にも被害が及ぶかもしれないとなれば、やはり対策は必要だ。頭が痛い問題だと斎藤の表情が険しくなる。
「ほんなら俺も手伝おうか」
普段なら絶対に思いもしない人助けの言葉がするりと零れる。言い終わってから自分自身でも驚く。酔狂にもほどがある。
「え?」
当然、斎藤にとっても意外だった。目を丸くする斎藤に、沖田は取り繕うように言葉を重ねた。
「ほら、俺ならはじめちゃんが夜勤の時、見張りできるし」
土方に言えば調整してくれるはずだ。斎藤と共に見廻りしなければならない理由もない。
「それは助かるが……、あんたがそんなことを言うなんて、どういう風の吹き回しだ」
それは自分も知りたい。言葉にするのをこらえ、沖田は視線を彷徨わせながら返した。
「まあ夜なんてやることないし。キツネ狩りも悪くないと思って」
「そうか……そういうことなら、頼みたい」
斎藤の表情がゆるくほぐれていく。眉間の皺が薄れ、殺気も鳴りを静めた。
――ようやく元にもどった。
殺伐とした斎藤も闘い甲斐あって好きだが、気を許した相手に見せる穏やかな表情も好きだった。そうだ。自分は斎藤に笑って欲しかったのだ。
柔らかな目を沖田はじっと見惚れるのだった。
斎藤の家は伏見から船で渡った先にあった。どこか懐かしさを覚える家の作りに小首を傾げながらも、そこにいた少女に目を剥いた。妻帯者という話は聞いたことがなかったからだ。が、詳しい話を聞くと血のつながりはなく、ただただ縁があって面倒を見ているだけだという。
お人よしが極まっていると呆れれば、どうも見過ごせないと言われてしまった。言われてみればたしかに庇護欲を感じる少女だった。輪廻転生の教えを信じられるほど、邪険にはできない印象を持たせる。
「夜の番を手伝ってもらえることになったんだ。それでもいいか、遥」
「うん。大人の人がいてくれると、キツネも寄ってこないと思うし。よかったあ。沖田のおじさん。よろしくおねがいします」
隻眼の沖田はちょくちょく子供から怯えられる。よく顔色が悪いと言われるし、上背もあるので子供から見れば恐ろしいのだろう。が、少女――遥は天真爛漫な笑顔を見せ、頭を下げた。
斎藤とともに過ごしているのだ。多少顔つきが悪い程度では怯えないらしい。そんなハツラツとした様子を見ると、沖田も気分がよくなった。
「おう。任せとき。……にしても、この家は獣が多いのお」
猫三匹に犬が三匹。さらに鶏まで飼っていたのだ。そのうち馬や牛でも飼うのではないのか。すり寄ってくる黒猫にどうしていいかわからずにいると、遥が抱き上げて寝床へと連れて行ってくれた。
「いつの間にか増えちまったんだ。これ以上増やす気はないんだがなあ」
「キツネを追っ払えそうな獣でも飼えるんちゃうか。狼とか」
「狼なんて鶏を食っちまうだろ」
「じゃあ鷹とか?」
追い払う程度なら鷲や鷹でもできそうだ。とはいえ鳥は飼いならすのが難しいというし現実的ではない。
「それより鶏小屋を頑丈にしたほうが手っ取り早い」
「あ、そーか」
「前は穴を掘られたんだ。だから板張りにしたんだが、次はカンヌキをとられてな」
「えっ!そんなに賢いんか」
簡易的なカンヌキだったろうが、そこまで知恵が働くとは思いもしなかった。戸を開ける猫もいるというし、キツネの中にもそのような芸当ができる個体がいるのだろう。
「そんならもう南京錠をつけるしかなくないか?」
「やはりそうなるか」
「厄介なやつに目ぇつけられたなあ」
「どこの家も獣害には手をやいてるらしい。このあたりは熊や猪はでないから、気は楽なんだが」
作物が全滅するほどの被害もないし、収入源も新撰組があるので困窮はしてない。他の農家に比べればまだマシだという。
斎藤は話を切り替えるように腰を上げる。
「腹が減っただろう。今作るから、ちょっと待っててくれ」
「はじめちゃん、メシつくれるん?」
遥が用意するわけではないらしい。意外な言葉に沖田は目を丸くした。
「誰だってそれなりに作れはするだろ」
適当に材料を切って味噌を入れる程度のものならば沖田でもできる。
まだ新撰組ができる前、試衛館時代では炊事係は交替だった。沖田も何度か当番になったが、おそらく炊飯はできない。いまいち水加減がわからず、おじやになってしまった。以来、炊飯はしなくていいと井上から命じられている。
「おじさんのごはん、おいしいんだよ」
猫と遊んでいた遥が褒める。当の本人は褒めなれていないのかはにかんだ笑みを浮かべていた。
冷たい風がふきこむ時季だというのに、一瞬、春の暖かな匂いが吹いた気がした。
初めて見せる表情に静かに息をのみ、沖田はしばらくのあいだ呆けるのだった。
斎藤の家を襲うキツネはなかなかの賢さを見せた。どうも大人がいることを察知している。夜中、わざわざ庭に出なくとも家にいるだけでも寄り付いてこない。おそらく、においや声、昼間に偵察に来るなどして警戒しているのだ。
ただ室内にいるだけで被害にあわないのであればそれにこしたことはない。一度拝んでみたいと何度か外で見張りをしたが、姿一つ見せることはなかった。
「嬢ちゃんはキツネ見たことあんの?」
白犬を可愛がる遥に聞く。キツネに襲われてはいけないからと、犬たちも夜は室内で過ごさせていた。
「うん。一度だけ。子供もいるみたいだった」
「ほお。せやったんか」
「家族がいるなら、ご飯は欲しいよね」
「せやろうなあ」
まだ秋口だ。山には食べ物も沢山あるだろう。わざわざ人里から降りてきたのは縄張り争いに負けたのか、それとも人間から奪う方が楽なのか。相手は人の言葉をつかえない。考えたところで意味はなかった。
「庭先にお野菜置いておけば、そっちをもっていってくれるかなあ」
「どうかなあ。キツネは肉も喰うというし。それに、ほかの動物がくるかもしれんで。猪とか熊とか」
「ううーん。そっかあ。そうだよね。鶏も食べられちゃったし」
「そういや鶏なんか飼ってどうするん。卵なんてうまくないやろ」
昔ゆでた卵を食べたことがあるが、変なにおいがして好まなかった。それからというもの苦手意識があって他の卵料理にも手が出せないでいる。
「えっ。おいしいよ。加須底羅とか」
「かすてらあ?なんや、その、変ちくりんなもんは」
聞き覚えのない言葉である。眉を下げる沖田がおかしかったのか遥はころころと笑う。
「へんちくりんじゃないよ。えっとね、お菓子だよ。とっても甘くておいしいの。前、おじさんが作ってくれたんだよ」
「ほお」
「ほかにもころころ揚げとかちらし寿司とか、おじさんが作るご飯はどれもおいしいから」
「せやな。さっきの鍋もうまかったし」
斎藤はいつも夕食を用意してから夜番に出ていく。かて飯、味噌汁、かき揚げ。どの料理も料亭でも開けるほどの腕前だった。ここ最近の楽しみといえばもっぱら斎藤の料理であり、今日はなにが用意されているのかといつも気になっていた。今日の鍋料理も絶品で、毎日食べてもいいほどの出来栄えだった。
「卵があればはじめちゃんのメシがもっと食えるっちゅうわけか」
鶏小屋は改装中だ。外装をさらに頑丈にして、いまは南京錠を取り寄せている。
「鶏、また飼えるかなあ」
「なんか賢いキツネちゅうしなあ。鍵をかけても別の方法を考えそうで怖いわ」
しかし卵がなければ斎藤の卵料理も口にできない。遥が絶品だというのだ。ぜひ食べてみたい。南京錠は数日で届くというし、鶏は再び飼えるだろう。無事、卵が手に入ればいい。
肌寒い日々が続く。
斎藤の仕事が終わった帰り道、沖田も同じ帰路についていた。今日は非番だった。特にすることもなく屯所で稽古をし、斎藤とともに別宅に向かう。自分がいるから沖田は来なくても大丈夫なのに、と遠慮がちに言われたものの、斎藤の飯を食いたいと言えば、彼はそれ以上言葉を重ねることは無かった。
南京錠も届き、見張りがいる斎藤家では再び卵が手に入るようになった。相変わらず作物は盗まれているものの、越冬のためならば仕方ないと許しているようだった。キツネ以外にもタヌキ、野鳥なども庭に現れる。囲いを作って対策もできる。しかし斎藤も遥も餓死させるのは可哀そうだと放置していた。
「用意したものなら食べてもいいと言えば、案外言うことを聞いてくれるしな」
「へえー」
買い出しのオマケに貰うような果物を外に出しておけば、野生動物たちはそちらを優先して盗っていくらしい。うまいこと共存し始めている。
斎藤の家は居心地がいい。あたたかな春を連想させる。庭には桜の木もあったから、春になれば花見もできるかもしれない。つい、そんなのどかな光景が思い浮かぶ。いつ死ぬかもわからない時代だというのに平和ボケしている。頭を掻きながら沖田は脇にさした刀を撫でた。
「今日の飯はなに?」
「じゃがいもがあるし、コロコロ揚げにしようか」
「あ!嬢ちゃんに聞いた奴や。楽しみやなあ」
ついでに酒も買っておこうと伏見で寄り道をしてから別宅へとむかった。
日が落ちるのも早くなった。伏見ではまだ夕方だったのに別宅近くになるとすっかり暗くなる。行燈でも持ち歩こうか。星空を仰ぎながらそんな他愛のない話をする。
細い弧を描いた三日月では、お互いの顔もろくにわからない。自然と距離を近くしてしまう自分に気づく。ぶつからないように間を開けようとするが、どうもうまくいかない。すぐに距離を詰めてしまう。斎藤を見たくて仕方なかった。
「うお」
不意に、ざさりと小動物が横切った。夜目でよく見えなかったが、猫よりは大きく、犬よりは小ぶりだった。
「なんや、タヌキか?」
「いや、キツネだろう。鼻先が尖っていた」
「ああ。そういやそんな顔やったなあ」
「この前聞いたんだが、近くの山に狼の群れができたらしい。そのせいで人里にキツネやタヌキが降りてきているようなんだ」
冬準備に加え、縄張りもあるとキツネたちも山からでていかなければならない。越冬しなければならないのは狼も同じだ。キツネたちも自分たちが食料となるのはごめんだろう。
「他の家もやられとるんやろ。そろそろ狩られるんちゃうか」
「それも仕方ないんだろうさ。うちは趣味みたいなもんだが、他は生活がかかってる。なりふり構っていたら餓死するのは人間だ」
「まあな」
斎藤の家にくるのは親子のキツネだという。猟師に狩られるのは哀れだが、これも弱肉強食だ。あまり同情しては生きていけない。
「沖田が手伝ってくれるおかげで大分助かっている。ありがとう」
「え、ええて、ええて。俺も退屈しのぎになったし」
見張りという見張りもしてない。うまい飯を食って寝るだけの簡単な仕事だ。ここのところ夜は斎藤の家で寝ているせいで、沖田もまた斎藤の家を別宅のように思い始めていた。
「なんなら――」
一緒に住んでもいいくらい。そんな言葉が零れ落ちそうになった。慌てて飲み込む。あまりにも誤解される言葉だった。
「ん?」
「いや、なんでもないわ」
一体いつ気がふれたのか。どろりと背中に冷や汗をながす。
訝しげにこちらを見る斎藤に手を振って誤魔化す。
そうこう話しているうちに別宅の軒先が見えた。塀を超えて主張する桜の枝が目印だった。
「……はるか?」
庭には遥がいた。鶏小屋の前でうずくまっている。
こんなに冷えて、外も暗いというのに、犬たちも心配そうに彼女のそばにいた。どう見ても異常事態だった。素早く遥のもとに向かう斎藤のあとを、沖田も続いた。
異臭がする。血のにおいだった。沖田は遥のもとに向かいながら辺りを観察する。暗くて分かりにくいが、あちこちに白い羽のようなものが散らばっていた。鶏小屋の扉は開いており、何も聞こえない。
ぐすんぐすんと鼻を啜る音が耳に入る。遥は泣いていた。手指に泥がついていたのだろう。顔や着物を汚していることにも気づかず、ただただ泣いていた。
「なにがあったん」
「遥」
「ごめんなさい。おじさん、ごめんなさい」
落ち着くようにと、斎藤は遥の背中をなで、室内へ促した。何度も斎藤に謝る姿が痛々しい。暴漢や盗賊の仕業か。腰脇の刀に手を伸ばしながら、沖田も家に入った。
斎藤がいることで少しは落ち着いたのか、遥はぽつぽつと説明をはじめる。
夕方ごろのことだった。畑の収穫を終えた遥は鶏小屋の掃除をしていたという。日が昇っている間の鶏は気性が荒いため、基本的に斎藤が世話をしている。だが、仕事で世話ができない時は遥が行っていた。夕方にもなれば鶏も眠りにつく。その時を狙って簡単に掃除をするのだ。
そこを狙われた。まず子キツネが鶏小屋に侵入した。すぐに気づいた遥が追い出そうと鶏小屋から出ると、その隙に大人のキツネが鶏たちを襲ったのである。あっという間だった。庭の異変に気付いた犬たちが追い払おうとしたものの、キツネたちは素早く撤退していった。一羽はそのまま奪われ、もう一羽は噛まれて絶命していた。遥も噛まれかけたところで転んだらしい。
突然の襲撃に、再び鶏が襲われてしまったことに、遥は酷く混乱してしまったらしい。めそめそと泣く様子も仕方ないと言えた。
「……」
それよりも、これが斎藤の逆鱗に触れたことの方が重要である。以前よりも増した殺気と不穏な様子に沖田も頬を引きつらせる。血のつながりが無いとはいえ一緒に暮らす子供が被害にあったのだ。肌を刺すほどの物騒な気配は、キツネたちへの殺意で溢れていた。
――彼らは龍の逆鱗に触れたのだ。
「嬢ちゃん、お風呂はいっといで。俺が湯を沸かすから」
「う、うん」
「はじめちゃん。犬とか猫たち、メシ食ってないんちゃうか。あげんとかわいそうやで。鶏もそのまんまにしたら野犬がよりつくし」
「……」
遥といる時は菩薩のような顔をしておいて、今は修羅よりも険しいものを見せている。このまま山狩りにでも行きそうだ。
斎藤が行くならば自分も行ったっていい。近くの山なら何度か足を運んだことがある。今日は月明りが乏しい。止めるべきだが、この状態の斎藤にどう言葉をかければいいのかわからず、とりあえずこの場を片付けることにした。
「そうだな。わかった」
重く静かに返した斎藤の顔は暗い。目を離した隙に山に行きそうだ。
そんな沖田の心配をよそに、斎藤は鶏小屋に入っていく。暗くてよく見えないだろうが鶏の死骸ならすぐに見つかるはずだ。あの様子ならば供養するなりなんなりするだろう。
遥を風呂に促した沖田はそのまま家の裏手にまわり、釜戸に火をくべる。ぱきぱきと音を立てる薪を見つめながら、身体を伸ばした。
穏やかな日々だったはずなのに急変してしまった。事の発端はおちついてなどおらず、再び姿を見せたのである。
――自分が酒を買おうなどと言わなければ。もしかすればキツネの襲撃に間に合ったかもしれない。
たらればなんてどうしようもないし、意味のないことだと理解している。けれど、遥の泣いた姿を見るとどうも調子が狂う。
しばらく釜戸を見つめていると、くすんとすすり泣く遥の声が聞こえた。
「嬢ちゃん、怪我しとったら言うてな。手当せんと」
獣がつける傷は病を引き寄せる。本人が気づいていないだけで実は怪我を負っていたことは珍しくもない。風呂に入れば滲みるはずだ。
「うん……」
小さく返事が返ってくる。
強い熱気を帯びる釜戸に薪をくべ、火かき棒で調整する。
「沖田のおじさん。あのね、おじさん、怒ってた?」
「んー?」
まだ湯に入る気分ではないのか、風呂場から水の音は聞こえない。
「私がドジふんじゃったから」
「あー」
遥が泣いていた理由はいくつもあったようだ。鶏が死んだこと、キツネに襲撃されたこと。それは遥のせいで起きたことであり、そのせいで斎藤が腹を立てているのだと。
「そら違うわ」
すぐに返す。全くの誤解だ。斎藤はそういう男ではない。そもそも鶏が死んだことも、彼にしてみれば大したことではなかったと見える。
「あれは嬢ちゃんが泣いてたからや」
「……え?」
「鶏の世話とかいろいろがんばっとったやろ。そんな嬢ちゃんが愛でてた鶏が襲われるわ、嬢ちゃんが泣いてるわでキれてたんやろうなあ。別に嬢ちゃんのせいちゃうで」
遥がすんと鼻を啜る。
「そうなの?」
「そうそう。はじめちゃんに怒ってほしくなかったらな、嬢ちゃんは笑っとかんとあかんで」
斎藤は妙な男だが卑劣漢ではない。むしろ女子供には優しく目線を合わせるような、とんだたらしだ。
「鶏はかわいそうやが、キツネを狩ったところで他の獣も狙うし、なかなか難しいのお」
狼やイタチだってそこらにいる。キツネだけを駆除したところで問題の解決にはならないだろう。
「うーん。どうしたらいいのかなあ。神様にお願いしてみる?」
「神様なあ」
害獣対策にいい神社などあるのだろうか。むしろ、情けをくれてやれと諭されそうだ。
「近くの神様にでもお願いしとくかのお」
京の神社より、地域の神社でお願いしたほうがご利益あるだろう。適当な供物も一緒に持っていこう。
普段は神仏など頼ったりはしないが、気休めにはなるかもしれない。ためしに明日の任務が終わったら試してみることにした。
「んあ?」
見覚えのない景色に沖田はきょろきょろとあたりを見回す。――なにをしていたのだっけ。いつからか呆けながら歩いていたらしい。手にある折詰を見て思い出す。
キツネ襲撃翌日。神社への供え物といえば酒だろうと伏見で見繕っていたなか、行列を見つけた。
どうやら行列の先に露天があるらしい。なんでも最近人気の稲荷寿司の店だという。折角だ。ついでに買っていこうといくつか詰めてもらった。
それから斎藤の別宅に向かっていたのだが、変な小道にでも入ったのか見慣れない景色が続く。いつもの農道ではなく雑木林の中だった。霧も出ているので空を見上げてもいまの時刻すらよくわからなかった。まるでーー夢を見ているかのようだった。
とりあえず歩けばどこかの道に出られるはずだ。それとも誰かに会えればなんとかなる。そう思って雑木林が続く道を進む。
「……ああ?神社?」
朱色の鳥居が見えた。急にそこに現れたかのような、異物な気配を見せる。
「ま、ちょうどええわ」
大きな鳥居は土埃で汚れている。あまり人が入らないのか、廃神社にでもなってしまったのか、人気はない。
しかし元々は神社に向かおうとしていたのだ。ここの神社でいいだろうと、沖田は一礼して鳥居をくぐった。
手水舎はないが奥には立派な社殿がある。その脇には狛狐の像も置かれていた。
「おや、めずらしい」
「うおッ」
不意に声をかけられ、振り向けば神主らしき男がいた。目が細くて開いているのかよくわからない。境内をそめるイチョウの葉をせっせと箒で集めていた。
「おお。人がおった。てっきりつぶれとったんかと」
「まあ、最近は人が来ませんね。伏見に大きな神社がありますし」
「ほお。せやったんか。ま、ええわ。これなあ、お供えしたいんやけど」
神主はぱちりと目を瞬かせ、口角を上げる。酒と折詰を差し出せば神主は弾む声で受け取った。
「おやおやおや。それはどうも、ありがたいことです」
「ここにどういうご利益あるかわからんが、キツネをどうにかしてほしいってお願いしてもええか?」
もしも生き物に優しい神様だったらバチが当たりそうだ。
「はあ、……狐、ですか」
妙なお願いだったのだろう。神主の目が鋭く光る。
「最近なあ、俺のじゃないが、知り合いの家で飼っとる鶏が相次いでキツネにやられてもうてなあ。昨日もやられたところで、そこんちの嬢ちゃんが泣いてもうて。したらはじめちゃんはいまにもキツネ狩りにでも行きそうなほどキレとってなあ」
「はあ、はあ。なるほど」
「ここってそういうのにご利益あったりする?」
縁結びの神社だったら期待できそうにない。そう尋ねる沖田に、神主は「なるほどなるほど」と呟いた。
「最近美しい娘たちの婚姻がつづきましたからねえ。あちこちでご馳走が必要だったのでしょう。若い者のなかには銭を知らない狐も多いそうですし」
「……あ?」
「あい、わかりました。そのこと、しかり伝えておきます」
「おお!助かるわ!」
気休めではあるが、神職にそう言われて悪い気はしない。斎藤や遥にもいい話ができそうだ。
「ただ、そうですね。明日、権力者の娘が結婚しますから、その準備であちこちからご馳走を調達するでしょうね。ですから、たとえばそう、こういうものを庭先に用意しておくといいですよ」
折詰を大事そうに抱えながら神主はそう言った。
「こういうって……おいなりさんか?」
「ええ、ええ。狐と言ったら油揚げでしょう」
「はあ……」
そういえば油揚げのことをキツネと言うっけ。稲荷寿司の稲荷だってキツネという意味だ。いつも鶏が襲われるからすっかり神の使いであることを忘れていた。
「どうか許してやってください。あとで詫びに行かせますので」
「ん?あー、いや。とにかく鶏が襲われなければええから」
「ええ、ええ。我々も龍に睨まれたくはありませんし」
この神主はどうも話していることがおかしい。神と通じるものは、普通とは違うものが見えているのだろうか。沖田は深く考えることはせず帰路につくことにした。
「あ、そうそう、町にでるにはむこうを真っ直ぐでええんか」
「ええ。どうぞ、お気をつけて」
踵を返し鳥居をくぐると、パシンと襖が閉じるような音が響いた。
一気に霧が晴れ、目の前には見慣れた農道がつづく。
斎藤の家はすぐそこだった。
「んあ?」
慌てて振り向くも、そこに神社などない。農道がまっすぐ伸びている。カアカアと烏の鳴き声が耳に届き、空を見上げれば夕日が見えた。
「……んん?」
やはり夢でも見ていたのだろうか。あまり疲れていないはずだが、白昼夢を見るなど普通ではない。沖田は頭を掻きながら小首を傾げる。持っていたはずの折詰も酒もないし、たしかに神社には行ったはずなのに。それとも折詰を買ったところから夢を見ていたのだろうか。
釈然としない気持ちで斎藤の家に足を向ける。よくわからないが、たぶんきっと神様もお願いを聞いてくれるだろう。叶う叶わないはわからないとしても、することが大事なのだと自分に言い聞かせるのだった。
沖田は早速斎藤に油揚げを置いておくようにと伝えた。昔からキツネの好物は油揚げと決まっている。神社でそう言われたと。
それを聞いた斎藤は半信半疑だったものの、遥が「そうしようよ」と賛同してくれた。不穏な斎藤の気配を幼い子供でも察知できたらしい。
このままでは斎藤はキツネを殺す。害獣とはいえ生き物が死ぬのは哀れだと、優しい遥は心を痛めるだろう。遥が傷つけばその分、斎藤も冷静ではいられなくなる。そうした二人を見たくはなかった。
「はじめちゃん、油揚げ作れる?」
「豆腐を揚げりゃあいいんだろ?」
「お寿司にしなくていいの?」
ひょこりと遥が話しに入る。沖田は小首を傾げた。
「キツネも寿司を食うんかのお?」
わからないことが多い。とりあえず油揚げも稲荷寿司も両方作ることにした。
当分鶏は飼わないが、もしキツネが油揚げを持っていくようならばもう一度飼ってもいいかもしれない。そんなことを言って、斎藤は夕食の支度にとりかかる。
「そういやはじめちゃん」
横目で遥が猫と遊んでいるのを確認し、沖田はひそひそと斎藤に話しかける。
「うん?」
「昨日の鶏、どうしたん?」
昨晩はヒリついた空気のまま食事する気分にもなれず、みなそのまま就寝した。結局埋葬したのかと尋ねる。
「……さすがに遥に食わせるわけにはいかなかったから、犬と猫たちに食わせた。あまった分は燃やして埋めたが」
「あ、せやったんか」
「鶏も鍋にするとうまいんだがな。流石によくないだろ」
「え。鶏ってうまいん?」
猪や鹿は食べたことがあるが鶏はない。
「うまい。俺は軍鶏のほうが好きだが」
「はじめちゃんって、……意外と美食家?」
色々と知っているものだ。料理が得意だとあれこれ食べたくなるものなのだろうか。
「そういうわけじゃないが……まあ物は試しと手を出したくなる性分なのだろうな」
「ふーん。今日のメシはなににするん?」
「今日は魚があるから辛味噌煮」
「白飯がうまくなるやつやな」
他の隊士たちと比べて沖田はあまり食べるほうではない。顔色の悪さもあってよく小食だとからかわれる。だが、斎藤の料理はどれも絶品で白米が進んだ。よく満腹状態にもなった。普段は腹八分目で充分だったというのに、随分と変わるものである。
「沖田は明日夜番だったか?」
「うん」
新選組の隊長が非番だというのに二人一緒にいる。悪党退治ではなく害獣対策として。そう思うとなんだかおかしい。前までは永倉ともよく遊んでいたが、そういうものとはまた違う感覚だ。永倉とはすっぱりと別れて帰路につける。斎藤は別だ。ずるずると帰るのを後回しにしたくなる。つまるところ、ずっと一緒にいたい。できるだけ長く共にしたかった。
――これはただのお気にいりではないことくらい、沖田もわかっていた。
「俺、はじめちゃんに惚れとるのかも」
「……はあ?」
手際よく魚をさばいていた斎藤の手がとまる。あまりにも不意打ちな言葉に、意味をかみ砕こうと斎藤の目線が上擦っている。
するりと零れた言葉は的を得ていたと思う。惚れてる。その言葉は違和感なく沖田の中に溶け込んで輪郭をつくりはじめる。いままで雲のようだった感情が、明確に愛情という姿を見せた。
斎藤は見れば見るほど整った顔をしている。それでいて恐ろしい表情も柔らかな表情も見せる、千変万化な男。惚れても仕方ない。開き直るような気持ちで呆けた斎藤をじっと見つめた。
「……は」
「ん?」
「話の途中で、変なことを言うな」
「あ?」
「明日の話をしてたんだ。それなのに」
「何の話やったっけ」
「明日は夜番かどうかの話だ」
「ああ、せやったか。そうそう。夜番。はじめちゃん、お弁当作って。俺、はじめちゃんのご飯食べると元気になるわ。おむすびとか、忙しいと作れんか?ちゃんとお金は払うで」
ダン。
つい滑る言葉の途中に差し込まれた、強い音に目を丸くする。
まな板が真っ二つに割れていた。斎藤が力の余りまな板を割ってしまったらしい。包丁で。
普通、まな板は木目を垂直にして使う。だから包丁で強く叩いたところで割れるはずがない。万一割れるとすれば木目にそって割れるはずだ。だのに、まな板は木目を垂直にして割れた。
もはや包丁で切ったと言ったほうがいいほど、きれいに真っ二つである。
「うおっ!?」
「……沖田。これを裏に持って行ってくれ。薪にする」
新しいまな板を取り出しながら斎藤が割れたまな板を渡してくる。
「う、うん……」
慣れた様子だ。もしかして前からよく割っているのだろうか。
「やっぱはじめちゃんはごついなあ」
剣の腕前だけではなく、怪力なのは素晴らしい。才能に溢れている。天は二物を与えた。ますます自分好みである。
いそいそと出ていく沖田を見送って、斎藤は長いため息をつくのだった。
伏見にて昼の見廻りを務めていた斎藤は、急な雨に空を仰いだ。あちこちに雲はあるものの、日は照っている。もちろん真上に雲は無いというのに雨に降られた。不思議な現象に小首を傾げる。後ろに控える隊士たちも急な雨に戸惑っている様子だった。
「おう。斎藤。どうした、そんなところに突っ立って」
同じく昼番の永倉が姿を見せた。巡回路は決まっているものの、余裕があれば他の地区を廻ることもある。特に最近騒がしい伏見ではなるべく時間をかけて見廻りするよう、土方から命じられていた。こうして他の見廻りと鉢合わせることも珍しくなかった。
「あ?なんや。雨か?」
ぱらぱらと振ってくる雨に永倉も目を丸くする。浅葱色の羽織が濃く滲んでいった。
「空が晴れているのに不思議だろう?」
「こりゃあ狐の嫁入りかもしれんな」
「……キツネ?」
そういえば聞いたことがある。日が出ているというのに雨が降るのは化生の仕業だと。狐は嫁入りするとき人に見られてはいけないという。人を欺くためにこのようにして雨を降らすのだと。
しかし今の斎藤にとってキツネは忌々しい存在だ。たとえめでたい婚礼があろうが関わりたくない。一体自分がなにをしたのだと問い詰めたくなるほど、ここ最近キツネに付きまとわれているようだった。
「どうした、怖い顔をして」
「趣味でやってる畑がキツネに襲われたんだ」
「そらご愁傷様やな。まあ、狐の嫁入りがあると豊作になるっちゅう話もあるし、そのうち恩返しがくるんちゃうか」
「恩は返さなくていいからうちを狙わないでほしい」
率直な言葉に永倉はけたけたと笑った。
「お前ならたとえ獣相手でも追っ払えるんちゃうか」
「俺がいない時を狙うし、殺したところでキツネは美味くない」
「毛皮ならそれなりに売れそうだがなあ。まあ、伏見でこんなこというと罰が当たるか」
「ん?」
妙なことを言う。永倉を見上げると、ちょうどよく鼻先に雨が落ちた。不快で眉間に皺を寄せる。
「こっちにはでかい稲荷神社があるやろ」
「……ああ」
そういえばそうだった。伏見稲荷大社。巡回路にもある。ただ、神は神、獣は獣だ。キツネに作物がやられようと稲荷大神のせいではない。
とはいえこの地域ではキツネは神の使いでもある。もし殺しでもしていれば祟られていたかもしれない。……それはそれで理不尽だと思うのだが。
「お。やんだな」
話しているうちに雨がやんだ。やはり頭上には雲が無い。だというのに羽織は濡れているから不思議だ。物の怪に化かされたと思うのも仕方がない。濡れた鼻先を拭い、隊士たちに目配せする。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「おう。最近は勤王党の連中が路地裏でたまっとるそうや。気ぃつけや」
「ああ」
今日、油揚げを作ったら稲荷大社にも供えよう。洛内でも伏見でも豆腐は手に入るはずだ。本当に豊作の知らせだというのであれば、山のように作ってやってもいい。そう考えながら巡回に戻るのだった。
遠くに明かりの行列が見える。夜の見廻りの最中、沖田は小首を傾げた。
たしかあの方向は斎藤の別宅がある。その近くの山だろう。列をなすような光が見えた。何の明かりなのか目を凝らしても、その正体はつかめそうにない。高台――屯所から見れば何かわかるだろうか。素行の悪い酔っ払いをしばきながらその光を見つめた。
「ったく。あんま暴れると斬るでえ」
相手は帯刀していた。不審な浪士は捕縛しなければならない。面倒くさいからいつも斬っていたが、ここ最近はそうやって一声かけることが多い。仏心ではない。汚れたくなかっただけだ。
斎藤の家に行くときは私服に着替えてからいくが、たまに髪や草履に返り血が残る。そのたびに斎藤からは睨まれるのだ。遥に見せたくはないのだろう。自分だって見せたいわけではない。ただいつもの癖なのだ。
新選組という仕事柄、人を斬ることが多い。当然返り血も浴びるし、そのたびに銭湯になど行ってられない。いつしか外見に気をつかうことが減っていった。よく土方から針で刺すような言葉を言われたりもしたが気にはしてなかった。
けれど斎藤には睨まれたくない。汚いと思われたくない。もちろん遥に汚いものを見せたくはない。だからこうして返り血を浴びないよう、穏便な方法をとるようにしているのだ。
捕縛した浪士を隊士に任せ、夜道に足をのばす。
今日は新月だった。行燈では足元を照らすくらいしか役に立たない。最近はまた勤王党の動きが活発になってきたという。厄介なものだと小まめに路地裏を確認しながら巡回を続けた。
「あれ。はじめちゃん」
「む……」
洛外から伏見につづく道を進んでいると、斎藤を見つけた。昼番だったはずの斎藤がなぜここにと目を瞬かせる。浅葱色の羽織を着てないし、伏見まで遊びに来たのだろうか。それにしてはなぜかバツが悪そうな顔をしている。
「歌広場に遊びにきたん?」
「いや……。その、伏見大神にお供え物を」
「ああ、そういやおっきい稲荷さんあったなあ。油揚げ、うまくつくれたん?」
「……ああ」
「そらよかったなあ」
無邪気に笑う沖田にどうしてか斎藤は複雑な表情を浮かべていた。困ったような、腹を立てているような、形容しがたい表情である。ただでさえ眉間に皺が寄っているというのに。あまり皺を寄せては顔の筋肉が固まってしまうのではと心配になる。
「どうしたん。えらい顔しとるけど。あんま遅くならんうちに家に帰ったほうがええんちゃう?嬢ちゃん、一人なんやろ」
「……そうだな」
「なんかあったん?」
むくれているようにも見えてきた。こんな顔を見せるのは初めてだ。幹部会で座布団を奪おうが気にしてない風だったというのに、意外な表情を見せる。
「……あんた、仕事終わったら屯所で寝るのか」
「んー、たぶん」
夜番の仕事が終わるころにはどこも店は閉まっている。屯所ならば夜食を出してくれるし、すぐに眠れる。わざわざ他の宿に行くのも億劫だ。
「なんでそんなこと聞くん?」
「……いや、その」
「うん」
「……はあ」
「なんでつかれとんねん」
疲労感溢れるため息をつかれてしまった。なにがなんだかわからない。
斎藤は足元に目線を落としたり、沖田を見上げたりと忙しなく逡巡している様子だった。昨晩までは見られなかった仕草に戸惑っていると、斎藤は再度大きくため息をつく。今度は諦めるような、脱力したものだった。それから緩く笑みを浮かべて沖田を見据える。
「……家に食事を残してあるから、うちにこれそうなら来い。こないなら俺の朝飯に」
「行く!」
まだ人の往来があるとはいえ昼間よりも人気は少ない道だ。沖田の声は大きく響き渡ったものの、本人は気にする様子もない。
「ちゃんと残しといて!」
「あ、ああ……」
「よっしゃ!そんならとっとと終わらせるでえ!じゃあな、はじめちゃん!」
出来れば一緒に見廻りたいが、斎藤宅には遥がいる。こんな時間まで幼子一人にさせてはいけない。名残惜しくも斎藤を送り出した沖田は気合を入れて巡回に戻った。
勤王党の一員がそれを見かけ仲間内に報告した。そのおかげもあって、しばらくの間勤王党の動きが静かになったことを、斎藤も沖田も知る由もなかった。
油揚げ作戦はうまくいっているのかよくわからない。
庭先にお供えした油揚げは朝方には消えていた。が、持っていったのはタヌキや野犬の可能性もある。この様子では鶏はまだ先だなと斎藤は朝支度を始めた。
「遥。沖田が来たらそこの飯を食わせてやってくれ」
「はあい」
早く屯所に行って交替してやろう。こんなことなら折詰を作ってやればよかった。
一昨夜のことを思い出す。惚れただのなんだのと言われ、挙句弁当を作れと言われた。別に弁当を作るくらい、どうとでもない。時折行商に卸しているのだ。一つ手間が増えるだけである。しかし、それで作ってしまえば、まるで返事のようではないか。
沖田に対して悪い感情はわかない。むしろキツネ対策に手伝ってくれて嬉しいと思う。人としては好きだ。けれど、惚れたのなんだととなれば、意味合いは変わってくる。
「沖田のおじさん、今日も夜番かなあ」
「ん?……どうだろうな」
新撰組の持ち回りはころころと変わる。ある日突然夜勤を命じられることがあれば、巡回路を変更することもあった。千変万化の時代だ。後手に回らぬよう、臨機応変な対応が求められる。斎藤自身、勤王党の根城を探るようにと今日命じられるかもしれない。
「どうした。なにかあったか?」
「ううん。そうじゃないよ」
「うん?」
「沖田のおじさんがいると、おじさんが楽しそうだから」
予想外のことを言われ目を丸くする。
「……。……そうか?」
「うん」
断言されてしまった。はた目からはそのように見えていたらしい。全くもって自覚がなかった。
「仲良しだよね」
「遥にはそう見えるのか」
「うん」
昨夜、稲荷大神に奉納したとき、斎藤の心は曇っていた。弁当を作ってほしいと言われたというのに、それを無視して油揚げを稲荷大神に納めたのだ。食材は余っていたし沖田に弁当を作れたはずだった。
沖田と鉢合わせたときも、彼は偶然を喜ぶだけだった。たまたま会っただけであれだけ喜んだというのに、自分と言えばくだらない意地を張ってしまった。沖田と比べてなんて女々しいことか。少々落ち込みもした。
だから夜勤終わりに食事に来ないかとつい誘ってしまったが、後悔はしていない。むしろ張り切ってくれた沖田に救われる思いだった。言ってよかったのだ。誘ってよかったのだ。飯を食わせるくらい、深く考えなくてよかったのだ。
大げさに反応しすぎてしまったのかもしれない。今度は弁当をつくってやろう。晴れやかな心で考え、朝支度を進めるのだった。
今日は非番でいい。仕事を終えると土方からそう言われた。人手が余っているらしい。土方にしては優しい判断だ。昨晩の捕縛数に不思議そうにしていたから、嵐でも起きると思われたのかもしれない。
――まあいいか。斎藤宅に帰った沖田は食事を腹におさめ、眠気に誘われるままに布団に入った。昼夜逆転する夜番はあまり好きではない。折角の朝だというのに寝るのはもったいない。けれど眠気はどうしようもないし、酒を飲む気分でもないから仕方なく横になるしかなかった。
沖田が目覚めたのは昼頃である。目を開けると傍で黒猫が丸くなっていた。腹の上には白猫が。足元には茶白猫が寝息を立てている。起き上がろうとすれば白猫が不満気に目を開けた。
「しらゆき。ちょおどいて」
「んる」
「るー、ちゃうの。俺は起きるから。お前たちは寝ててええから」
「んにゃッ」
どかそうと抱き上げようとすれば、しらゆきは自らおりて行った。他二匹はまだ眠るようだ。
沖田は身体を伸ばしながら起き上がり、あたりを見る。室内に遥はいない。外だろうか。戸を開けると門扉に遥が見える。誰かと応対中らしい。近所の人間ならいいが、厄介な人間なら子供の遥が危ない。
草履を履いてそちらにむかうも、遥はすぐに振り返ってしまった。大きな笊を両手で持っている遥に目を瞬かせる。
「あ、沖田のおじさん」
「誰か来とったん?」
「なんかね、ちっちゃい子がくれたの」
笊には山のようにアケビや栗が積まれている。
「ちっちゃい?近所の子か?」
「ううん。知らない子」
「なんで知らん子がこないなご馳走くれんねん」
どれもこれも大きな実だ。ただのおすそ分けではないだろうし、遥が知らないのであればおすそ分けの可能性もない。
「なんかね、「この間はおどろかせてごめんなさい」って」
「ううん?」
沖田が小首を傾げれば、遥も同じように頭を傾ける。
「それで詳しく聞こうとしたら、走ってどこかにいっちゃって」
「ほー?」
おどろかせてごめんなさい。つまり子供は遥に悪戯をしたらしい。その謝罪として笊一杯の木の実をくれたということだ。
「嬢ちゃん、なんか最近怖いことあった?」
「ううん」
「せやろうなあ」
なにかあれば斎藤が知っているはずだ。ここ最近の斎藤と言えばキツネ騒動くらいしか険しい顔をしていない。そう考え、手を叩いた。
「わかった。狐に化かされたんや」
「ええ?きつねに?」
「そおそお。だって最近嬢ちゃんがおどろいたことといえば、キツネやろ」
それならしっくりくる。笊にあるのはどれもこれも山のものだ。キツネたちがせっせと集めて謝罪に来たとなれば、案外律儀なところがあると感心してしまう。
「そうだけど。……本当にそういうことってあるの?」
「俺はそういうことないけど、そういうことあってもええんちゃう?」
「うーん……」
「もし今度会うときあれば、油揚げはうまかったかって聞いてみい」
それで正体はわかるはずだ。
「そっか。そうだよね。そうする。もうちょっとよく見ておけばよかったな」
「もしかしたら尻尾が見えるかもなあ。子ギツネもきとったんやろ」
「うん」
「きっとボロがでやすいと思うでえ」
悪戯ぽく口角をあげれば遥もつられるよつに笑った。
自分も是非見てみたい。しかし、キツネたちは自分や斎藤が家にいる時は来てくれないのだ。もしかすると子ギツネが逃げていったのも、沖田が目を覚ましたせいかもしれない。沖田が寝ている隙を狙って遥に接触したのであれば、ますます信憑性が上がる。
「栗ははじめちゃんに栗ご飯にでもしてもらお。アケビは嬢ちゃんが食えばええわ」
「たくさんあるからおじさんたちにもあげるね」
「おお、ありがとなあ」
どのアケビもぱっかりと縦に割れている。熟れた証拠だ。足元でマメたちが物珍しそうに見上げている。
「アメたちにもあげるからね」
「わう」
ご機嫌な返事に遥も沖田も和やかに笑うのだった。
コオロギの鳴き声が響く。あちこちでトンボやバッタが飛び交い、涼しい風が吹いていた。
昼番を終えた斎藤は帰るなり油揚げをつくり、庭先にいくつか置いて、今日も稲荷大神に納めるために竹皮で包んだ。
油揚げを置いてからは畑は荒らされてない。さらに言えば今日、キツネの子供が謝罪に来たという。沖田と遥が仲良くそう言うものだから、そんなことあるわけないと否定はできなかった。
眉唾ではあるものの、もしそうならば今後も油揚げを作るのもいいだろう。遥の心もあまり傷ついているようでもないし、これが続くのならば、今度こそ鶏が飼える。
「あ。やっぱこっちの山やなあ」
すっかり日が落ちた農道を斎藤は沖田とともに歩いていた。稲荷大神に納めに行こうとすればついてきたのである。
今日は斎藤がいるので沖田は屯所に帰ってもいいのだが、それを言ってしまうのも憚れた。遥の言う通り、沖田とともにいるのは楽しいのかもしれない。それが、沖田と同じ思いなのかは、まだ判断できていないのだが。
「なにがだ?」
「ほれ。あそこ」
沖田が別宅の裏手にある山を指した。指が指し示す方を見上げると、明かりが列を作っていた。日の明かりのような明るさではなく、蝋燭などの淡い光に見える。大勢で行燈を持っているかのような光景に眉をひそめた。
「昨日も伏見から見えたんや。はじめちゃんちのほうやなーって。火事じゃないみたいやが、なんかのお参りかのお?」
「……もしかして」
目を擦る。強めにこすったところで目の前の光景が変わる様子はない。
「狐の嫁入りじゃねえだろうな」
「はあ?」
「昨日、稲荷についていろいろ調べたんだ」
先日の昼間には狐の嫁入り――天気雨に遭遇した。そして最近のキツネ被害に、油揚げ。もしあやかしに近いキツネが斎藤宅を狙っているのであれば、ほかにも悪さをするかもしれない。そうして伏見神社の神主や知り合いの神主にも稲荷神について尋ねたのである。
「狐の嫁入りって昼に雨がふることやろ」
「それもあるし、こうやって夜中に狐火が見えることも、そう呼ぶんだと」
狐に憑かれているのだろうか。ここ最近はキツネに関することが多すぎる。
「じゃあいまあそこで宴会でもしとるんかのお」
「かもな」
案外この手の話を信じるらしい。沖田はふーんと言いながらも楽しそうに伏見への道に足を伸ばす。
「ほかにはなんかあった?いなりさんのはなし」
「縁起のいい神様ってのはわかった。五穀豊穣、商売繁盛、ご利益はあるらしい。もともとネズミを食う生き物だから、それで作物が育って豊作になった、ってのが由来なんだと」
「ほおー。まあいまは逆なわけなんやなあ」
「まったくだ。とまとあたりがが採れないと割にあわん」
「とまとお?」
知り合いの英国人から聞いた名称だ。沖田には聞き覚えが無いのも仕方がない。
「唐柿だ」
「えっ。あれってくえんの?」
「赤く熟れたらな」
「どんな味なん」
「……すっぱい?」
うまく言い表せられない。煮物に入れているので明確な味は知らなかった。曖昧な表現を使えば沖田は怪しむように目を細めた。
「それ、腐ってへん?」
「い、いや、そんなことはない。俺も遥も腹を壊したことはないぞ」
「ふーん」
隻眼はうさんくさそうに見据えている。斎藤もとまとが食用だなんて最近知った。中に得体の知れないものが入っていたときはぞっとした。野菜にも内臓があるのかと勘違いしたほどである。
が、実際食べてみるとなかなかイケる。少なくとも斎藤と遥に口にはあっていた。とまとを使った弁当も人気があるし、まずいはずはないのだ。
「次、とまとが収穫できたら食わせてやる」
「えっ。ほんま?ほんなら、たくさん採れるよう、いなりさんにお願いせんとな」
急に笑顔を見せる沖田に、自分の眉尻が落ちるのを感じた。ころころと表情が変わる。けれど騒がしさを感じない。最近は心地よさすら感じている。慣れたのか感化したのか。ただ、不快でないのは確かだった。
それから十日ほどのこと。
油揚げを庭先においてからというもの、作物への被害は完全になくなった。それどころか、夜に沖田や斎藤がいなくともキツネたちはやってこなくなったのだ。
それなのに沖田は日参する。もう充分だと告げれば悲しそうな眼をされてしまった。わざわざ渡し舟をつかってここに来るのは面倒だろうと気を使ったつもりだったのだが、余計なお世話だったらしい。
「いくら犬猫がおっても、夜中嬢ちゃん一人だけにするのは危なっかしいわ」
「う……」
「俺って邪魔なん?」
沖田は捨て犬のように項垂れた。
そんなことをされては否定するしかない。斎藤と遥の二人でもこの家は広すぎる。穴を埋めるように犬猫を飼ったものの、まだまだ余裕があった。そこにちょうど、男一人いると、むしろいてくれたほうが、家のおさまりがよかったのだ。
沖田は仕事が終わると斎藤宅に転がり込んだ。遥もそれが当然のように受け入れている。彼女には夜間の危険もさることながら、孤独に慣れてほしくはなかった。そういった意味では沖田はちょうどよかった。意外にも沖田は子供には優しい。無邪気に遊ぶ姿も見た。この前は遥とコマの対決で負けて悔しがっていた。新選組では見せない穏やかさを見つけるたびに、また見てみたいと思うようになる。――この感情の素性を、暴くべきか悩んでいる。
夜番明けの斎藤は帰宅するなり作物を収穫して朝食の準備をはじめた。寝ていた二人も、もそもそと起床して布団をたたみ始める。遥が行商からの注文を確認している隣で沖田は犬猫たちに食事を与え、斎藤のもとにやってきた。
ぼけっと寝ぼけ眼を見せる。ずいぶんと油断した姿に笑ってしまいそうになった。新選組最強と呼ばれる男がなんて姿を見せるのだろう。初対面時の狂犬らしさは一体どこに消えたのだか。
「どーみても毒があるように見える」
赤く熟れたとまとを前に沖田がつぶやいた。彼岸花のように濃い赤は毒々しさを感じる。斎藤も食べるまではそう考えていた。観賞として見るならば綺麗と思わないでもないが、食べてみようという気分にはならない。
「そう思うなら無理して食わなくても」
「やだ!食べる!」
「……鶏小屋から卵とってきてくれ」
「んー」
あれからまた鶏を飼い始めた。
キツネは見かけなくなった。本当に油揚げで満足しているのか、遥も沖田も見かけることはないという。斎藤宅だけのみならず、獣害に悩んでいた近隣住民もまた被害がなくなったと聞いた。
キツネ騒動は裏山の狐の嫁入りが終わるとともに収まった。本当にキツネたちはあたりから食べ物を調達して宴会でも開いていたのだろうか。何とも迷惑な話だ。それでもいまだに油揚げがなくなるのは、あのキツネの親子たちの食事になっているのだろうか。ともあれ、もう鶏が狙われないのならば、これまでの狼藉を許してやってもいい。
数日前、隣の農家が猟師にキツネを狩ってほしいと依頼をかけたらしい。それを聞いた遥が辛そうにしていた。隣人には悪いが、やはりあのとき山狩りにいかなくてよかったなと安堵した。
とかく、遥が傷つくことがなければいい。沖田や遥がいうにはキツネの子供が謝りにきたというし。遥がもう怖くないのであれば、それでいいのである。
「はじめちゃん、とってきた」
「ああ、そこに置いておいてくれ。……どうした」
戻って来た沖田は酷い有様だった。手の甲は出血しているし、服は汚れ、髪も乱れている。どこの輩に襲われたのだと聞きたくなる。だが、これは大して心配するほどのことでもない。
「鶏ってあんな気性荒いんやなあ」
鶏の世話などはじめてだったらしい。あちこちに羽毛がくっついている。
「やられたか」
「めちゃくちゃ突かれたわ」
「棚に薬箱あるから手当てしておけ」
「ええて、こんなん」
出血はしているが深くはなさそうだ。この程度で手当てなど受けたくないのだろう。
「獣にやられた怪我は悪化しやすいんだ。薬くらい塗っておけ。というか、いったん風呂にでも入ったらどうだ」
「風呂は昨日はいったから薬塗るだけでええわ」
沖田は服についた土汚れを払い落とした。朝に風呂はいったっていいだろうに。そう思いながら頭についた羽根をとってやる。
「飯、なにつくってんの」
「いろいろ」
「朝からそんなに食う?」
「今日、幹部会だろ。大目に作って残りは弁当にしようと思って」
夜番だろうが昼番だろうが幹部会は出席しなければならない。普段は当番が交代する時間帯に行われるが、今日は昼過ぎに開くという。
仮眠しなければならないほど眠くもない。このまま幹部会にも出て、昼食をとったら寝ることにした。今日は非番であるため気が楽である。
――新撰組という常に血を浴びるような組織にいながら、なんてのどかな会話なのだろう。不意に自分がするべきことを忘れそうになる。それほどまでに心地よい生活だ。手放したくない欲が出てくる。
みなを、騙している分際で。
「……あんなあ、はじめちゃん」
「うん?」
沖田は自分の頭上にある斎藤の手を取り、両手で包み込む。硝子細工を扱うかのような柔らかな仕草で斎藤を見据えた。
「俺、毎日こういう話したい」
「……」
何を言うかと、息が詰まる。
斎藤の後ろ暗い心情が大きく揺れた。すべてを言ってしまいたい。何もかも包み隠さず暴露してしまいたい。絶対に理解されないことを認識しておきながら、その欲が暴れだす。
自分は新撰組の人間から仇を見つけ出さなければならない。そうしなければ生きてはいけないからだ。
けれど、それを成し遂げた時、自分は敵討ちとして彼らに殺されるだろう。――斎藤が敵討ちを果たすのと同じように。
だから言えるはずがないのだ。ただ、もう、沖田に対する想いが暴れている以上、自分だってこの生活を続けていたい。
「……はじめちゃん?」
脂汗をながす齋藤に沖田は訝しげに名前を呼んだ。
「……」
一呼吸をおく。
秋の冷たい空気を吸って、なすべきことを思い出す。敵討ちが目的ではない。なぜあのようなことになったのか。自分はそれが知りたいのだ。
私利私欲ならば許しがたいが、あそこまでの剣の腕がある人間にしてはやることが小さいようにも感じられる。特に新撰組の人間でそのような考えを持つものは見当たらない。
なにか事情があるならばそれを知りたい。なぜ恩人である吉田が殺されなければならなかったのか、納得できる理由が欲しかった。知るまでは死ねないし、生きてもいられない。
「……俺には隠し事があって」
「ん?」
「まあ、そのうち話せると思うんだ。それを、あんたが受け入れるかどうかわからないから、……そのときになったら、また言ってくれないか」
「んんん?」
沖田はこてりこてりと小首を左右に傾げる。いまいち咀嚼できないらしい。
「よおわからんが、ここにいてええんやな」
「隠しごとがある男でもいいならな」
「俺にだって秘密の一つや二つくらいあるし」
「へえ?」
およそ隠し事などできないように見えたが、人は見かけによらないらしい。ひと癖ふた癖のある新撰組の隊長ともなれば、大っぴらにできない事情くらいあって当然というわけか。
「はじめちゃんなんてすぐに顔にでるから、秘密なんてないかとおもった」
「む」
「めっちゃわかりやすいで。まあええけど」
昔から吉田や武市からそう揶揄われた。大人になった今では上手くできていると思っていたのだが、沖田にはそうは見えないらしい。もともと隠し事は苦手だ。隠すという行為自体、男らしくないと思う。
「今日も稲荷さんところいくん」
「ああ」
「じゃあ早めにでんとな」
稲荷大神への参拝は習慣となった。都合が合えば沖田とともに行くし、それが楽しみな自分を戒めることができないでいる。
「こんだけ油揚げをやっとるんやから、なにかしらご利益あってもええんちゃうか」
「そりゃあご利益があるのは嬉しいが、こういうのは必ずあるようなもんでもねえしな」
「こんなにも敬虔なのに」
「やっぱ、キツネの被害だとしても稲荷大神に頼むのはスジ違いだったのかもな」
そう考えながらも止めるつもりはなかった。伏見神社までの道のりは長く、一人ではつまらない時間をすごす。それが沖田と共であれば瞬時につくように感じるのだから不思議だ。狐につつまれるように感じる。
「わからんでえ。冬でもとまとが沢山採れるかもしれん」
「とまとは夏の作物なんだがなあ」
冬でも採れるのはありがたいが、そんなうまい話があるものか。
「こういうのは期待しとるうちが楽しいんや。とりあえず言っとけば神様も聞いとるかもしれん」
「そういうもんかね」
「そおそお」
信心深いようには見えない。都合よく解釈しているといって良いだろう。まあ、ただ神頼みするのではなく、それくらいの姿勢でいる方が健全なのかもしれない。
「今日の幹部会なんやろなあ。早く終わればええが」
沖田は欠伸をしながら身体を大きく伸ばした。
「どうせ厄介ごとだろ。早く手当てしてこい」
「はいはい。嬢ちゃん、薬箱どこお?」
「あ、はい。こっちにあるよ」
掃除中の遥がいそいそと世話を焼く。あれくらい沖田一人でもいいだろうに。ずいぶんと懐いたものだと和やかな気持ちで見つめ、朝飯の用意に戻るのだった。
なにもかもを暴露して、怒涛の日々を乗り越え、ようやく迎えた春の日だった。
稲荷大神への奉納は毎日は行えなかったが、暇を見つけては参拝した。そのおかげか畑では豊作が続いた。
冬になってもとまとは育ったし、土を掘ればじゃがいもが採れ、葉物や根菜も継続的に収穫できた。どれも実りがよく、味も申し分ない。これがご利益なのだろうか。おかげで食べ物には困らず冬を越せたのはありがたいことである。
「おら!よこせや!」
「ここここ、ぎゃーッ!」
朝から沖田は鶏小屋で格闘している。鶏は気性が荒いものが多いが、今回の鶏は一際騒がしく力強い。卵の収穫は沖田の仕事だ。斎藤でもいいのだが、沖田が「あの鶏どもから無傷で採れるようになりたい」と言うので好きにやらせている。
キツネたちは斎藤の前には姿を見せないものの、遥の元にはたまにくるらしい。この前は新しい子供を見かけたという。こちらを襲ってくる様子もない。平和なものだ。
作物や鶏が狙われることもなくただただ油揚げを持っていく。たまに果物やキノコが置かれることもある。
「くっそー。一撃いれられたわ」
「だから庭先に出してから採ればいいと言ってるだろ」
足を蹴られたのか、袴を汚した沖田が戻って来た。何度も蹴られるので、鶏たちを庭に出してから卵を収穫しろと言っているのに懲りない。
「だって負けた気ぃすんやもの。それより、採ってきたで」
沖田の手には卵が二つある。今回の鶏は元気がいいせいなのか市場のものより一回り大きいのが特徴だった。
「ああ。ありがとう」
「なー。加須底羅つくって」
「かすてらねえ」
前につくった加須底羅を気に入っているらしい。
沖田は斎藤が作る料理を何でもうまいと言うし、卵料理も斎藤のものでなければイヤだと我儘をいう。それを許してしまうあたり、自分も変わったのだと自覚する。自分よりも上背のある男に愛おしさを抱くなど、もはや言い訳のしようもないのだ。
彼に抱かれたのだって一度や二度でもない。数えるのが億劫になってからは回数を覚えるのも止めた。
「あれ卵が十五個必要なんだよな」
「ええ?!そんなに使うん?!」
卵を大量に使うことに、沖田は目を丸くした。ただでさえ市場では卵は高級品である。贅沢な菓子だ。
少量で作れればいいのだが、なにぶん火加減が重要となる料理だ。下手に分離よを変えると失敗しそうで怖い。
「まあ市場で買ってくればいいんだが」
「……鶏増やす?」
安直な提案に苦笑する。
「収穫するのも世話するのも大変だろ。うちは二羽しかいねえってのに毎日煩いし。はちみつも買わないといけねえし、市場で買ってくる」
大きな出費だがその分大量に作れる。余った分は市場に卸せばいい。滅多に出回らないからと物好きたちが買ってくれるのだ。手間ではあるが元はとれる。
「はじめちゃんの好きな軍鶏は飼わんのか」
斎藤はぱちりと目を瞬かせた。なぜそれを知っているのか。そう考えた後で、そういえばそんな話をしたような気がした。自分ですら話したことを忘れていたというのに、この男はしっかりと覚えていたらしい。
「軍鶏は鶏より狂暴だからやめておけ。愛着もわくし」
「そーいうもんか」
「市場で手に入るならそれでいいじゃねえか。無理に変える必要なんてねえよ」
「ふーん」
おだやかな風が吹く。庭で咲き誇る桜が花弁を躍らせて、マメたちが捕まえようとはしゃいでいた。暖かな光景に肩の力が行け、目が和らぐのを感じる。
ふと、視線を感じた。隣の沖田が呆けた顔でこちらを見つめている。なんだと小首を傾げれば沖田はうわごとの様に口を開いた。
「――俺は、最初はじめちゃんを見たとき」
「ん?」
小首を傾げる。
「眉間の皺がごついなあとおもっとったわ。やけに気ぃ張っとったし。まあ、新選組じゃそういうの珍しくも無かったが、はじめちゃんは特に強かったというか」
「そうだったか?」
自覚はない。やはり傍から見れば怪しかっただろう。いまとなっては些細なことだが。
「無口な奴と思えばそうでもないし、仏頂面だと思えば、ころころ変わるやろ」
「それは兄さんだろ」
喜怒哀楽の激しい人だ。自分の顔つきが怖いと呼ばれているのは知っているが、豊かであると指摘されたことはない。
「普段むすっとしとるやつが、まるで仏さんのような顔を見せたりするから、それがどうも気になってなあ。いまとなっちゃ、それが毎日見れるとは――俺は果報もんや」
しみじみとする沖田がなんだかおかしくて頬が緩んだ。大げさな。そう言ってやりたい。その一方で、気恥ずかしくてたまらない。
「俺も、兄さんが甲斐性者で助かってるよ」
キツネの騒動から始まり、斎藤の正体も、なにもかも受け入れてくれた。
昨日まで当然だったことが、明日には無くなっている。そんな時代のなかで、お互いに疑いながらも共に過ごすことをつかみ取ることができた。新選組に入るまでそんな生活など夢にもみなかった。こんなにも深い縁になるとは、自分は運がいい。彼には何度も助けられた。――手放したくない。
「ちゅうことは、なるべくしてなったってことやな」
「……そうかあ?」
それは都合よく解釈しすぎているように聞こえる。
「まあ、悪くはねえか」
この関係がイヤなのでもなく、心地のいい時間が続けばいい。となれば、沖田の楽観的な解釈も有りなのだろう。
「市場行くんやろ。荷物持ちになるから、一緒にいこ」
「ああ、そうだな」
この穏やかな日々だけは、変わらないことを切に願うのだった。

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