清潔なにおい、陰鬱な空気。それくらいなら耐えられる。
けれど。
少量の食事を完食できなかったり、
手すりを使ってようやく歩けたり、
一回り薄くなった手を見ると、
喉奥が焼けるような気分にさせられる。
1 年賀状
免疫療法、化学療法、放射線療法、等々とがんに対する療法はいくつもあることを、この歳になって知った。大きな病気など罹ったことが無いし、罹ったら罹ったで考えればいい。それを、まさか他人の姿を見て学ぶとは思いもしなかった。
末期がんであり余命も少ない人間では、できる治療法も少ない。緩和ケアに移行し、穏やかな余命を送るのがほとんだだろう。
骨ばった手の甲を見つめる。いつ見ても点滴の針が邪魔そうだ。辛気臭いというのコレを指すのだと、真島は鼻を鳴らす。
「花粉症か?」
からかう声に真島は「ちゃうわ」と短く返した。
擦れて覇気のない声に調子が狂いそうになる。しかし、それを見せればきっと彼――桐生に気を使わせる。
剛胆なようで繊細過ぎるのだ、この男は。だから普段通りの態度を心掛けた。粗雑な言葉を使い、彼を病人扱いしない。
一定の気温に保たれた病室で過ごすと季節感も忘れてしまうのだろう。まだ寒い時期では花粉が飛ばないのだ。ただ、桐生は時にわかりにくいジョークを言うから厄介だ。下手くそなのだからやめればいいのに、自分ではうまいつもりらしい。
「そういや、年賀状出した?」
「は?」
「は、やのうて。年賀状」
初めて聞く言葉でもあるまいし、桐生はぱちりと目を瞬かせる。
「毎年この時期は郵便局が騒ぐやろ。いつまでにだしてくれーって。今年はクリスマスまでらしいわ」
「へえ」
「もう書いた?」
「いや。そもそも送る習慣が……」
まだ極道にいたころは若衆の務めとして兄貴分たちに送っていたはずだ。ただその後刑務所に入り、破門され、沖縄に移住した。送る相手という相手もいない。そう言わんばかりに桐生は口を曲げる。
「……そういや、しばらく兄さんにも送ってねえな」
「薄情なこった」
「仕方ねえだろ」
苦笑する桐生に内心安堵する。桐生とはバカバカしい話をしたかった。神妙で鬱々とした話などごめんである。
死期が近いからなんなのだ。この世の終わりを嘆くつもりはない。それよりも普段通りに接したほうが桐生の為だ。
真島はそう信じていた。常に生命力にあふれていた男だ。大人しくさせたほうが毒だろう。
「お前は死んだり生き返ったりとせわしないなあ」
大道寺一派に身を寄せてからは桐生の音信は不通となった。自分も雲隠れしたのでお互いの居場所なんて不明だったが、また送る習慣になるはず。そんな予感があった。それに、何年かけても見つけ出す自信もあったのだ。
「うるせえなあ」
「まあええわ。年賀状買ってくるから、誰に出すか思い出しとき」
「そんなにいねえよ」
よくいう。やろうと思えば百人以上は候補者がいるはずだ。
「絞り出しとけ」
「そもそも住所なんてわかんねえのに」
「電話くらいかけれるやろが。めんどくさがらんで、やり」
「わかったよ」
院内のコンビニで年賀状は扱っているだろうか。なければ郵便局まで足を運ぼう。そう部屋を後にする真島を見送りながら、桐生はなぜ彼と年賀状を送り合う関係になったのか、そのきっかけを思い返していた。
◇
最近では元旦から店を開いているおかげで、馴染みの仕出し屋に無理を言って料理を用意させることもなくなった。やはり三が日というのは静かに過ごすものだと思うものの、この業界ではそうは言ってられない。本部、本家、それから親戚。客を迎えたり挨拶をしたり、酒を出してはグラスを引っ込める。下っ端のやることなんて昔から変わりはしなかった。
正月の極道はどこもかしこも宴会で騒がしい。堂島組事務所でも同じだった。何度目の「あけましておめでとうございます」だろうか。それを言うだけの機械になった気分だ。
そんな中、上役から追加の酒を買ってこいと命じられた。年末にあれだけ飲んでおいて、まだ飲むらしい。
しかし外に出られるチャンスだと、桐生はいそいそと酒の買い出しにでた。誰かに見つかれば、桐生と同じく脱出したい者が代わりを申し出る。
譲ってたまるか。ようやく息をつけるとばかりに事務所から出た桐生は早速煙草を咥えて街中に足を向ける。
あまりのんびりしていればまた叱責されるが、これくらいは許してもらわなければやっていられない。どうせ娯楽関係の店は休みなのだ。そんなに寄り道もできないだろう。
流石の神室町も正月となれば人も減る。キャバクラもホストも三が日は休みだ。パチンコ屋が騒がしい音を響かせているくらいで、他の通りに出れば静かなものだった。
「お!桐生ちゃん!」
不意に声をかけられて振り返る。聞き覚えのある声に、この特徴的な呼び方をする人間は限られた。嶋野組の真島だ。眼帯といいパイソン柄のジャケットといい、特徴的な男である。
カラの一坪事件以降、嶋野組で見かけるようになった男はなにかと桐生に絡んできた。特別悪い感情を向けられることは無いし、よく話しかけてくるので桐生も多少は気を許している。
「真島の兄さん。どうも、あけましておめでとうございます」
「おう。あけましておめでとさん」
桐生が畏まって挨拶するも、真島は興味ないとばかりに手を振って頭を上げるように指示する。
「正月の昼間にこんなところにおるなんて、抜け出してきたんか」
「まさか。買い出しですよ。真島の兄さんは?」
「俺?あんなんつまらんからぬけだすに決まっとるやろ」
「……」
武闘派であり舎弟にも容赦しないで有名な嶋野組の人間とは思えない発言である。
「酒臭いオヤジの昔話なんて欠伸出てしゃーないからなあ」
この男がこのような態度に出ても許されるのは、まさしく「狂犬」と呼ばれているからだろう。それでいて親の命令はきくし、稼ぎも上げているというのだから、嶋野も扱いきれずに放置しているらしい。
「そんなことよりも桐生ちゃん」
「はい」
「桐生ちゃんからの年賀状来てないんやけど」
「……はい?」
思わず聞き返した。
「年賀状や。ねんがじょう」
わざとらしくゆっくりと言われるが、その言葉の意味は分かる。文脈がわからないのだ。
「……えっと」
この業界は礼儀が第一にある。上下関係はもちろんのこと横のつながりも強固にするのが当たり前、当然年賀状もあちこちに配っている。だが、それは組としてであり、桐生個人で出す年賀状などありはしない。元々手紙を出す習慣もないし、あけましておめでとうなんて直接言えばいいのだ。家族も親戚もいない桐生にとって、個人的な挨拶をするべき人間は片手程度しかいない。
「堂島組から嶋野組に年賀状はだしているはずですが」
「は?今そんな話してないが?」
「……なんで俺が真島の兄さんに年賀状を?」
やはり個人間の年賀状の話をしていると、察しの悪い桐生でも勘付いた。
それにしてもいきなりこんなことを言われるとは思わなかった。礼儀にうるさい兄貴分たちに仕事として年賀状は出していたが、他の組の大して接点のない人間宛に出そうとは考えもしなかった。これは怒られる案件なのかと頭が痛くなってくる。そんな桐生の心情も知らずか真島はきょとんと小首を傾げた。
「出したらあかんのか」
「え、あ……、いや」
そういうわけではない。他の組とはいえ堂島組と嶋野組は親戚だ。個人間で年賀状をやり取りしたくらいで目くじらを立てる人間はいないはずである。
「そういうわけじゃないですが、個人的な年賀状を出す習慣がないんで」
「ほー。年賀状書くこと自体はええんやな」
「まあ、はあ。そうですね」
何十何百も書くならまだしも、一枚程度なら大した苦労でもない。面倒であるが断る理由もなかった。
「じゃあ出して。今日出せば明日か明後日には届くやろ」
「……なんでそんなに欲しいんです?」
「俺、あんま年賀状届かんから。欲しいなあって。切手シート当たったら分けてやるわ」
いらない。
けれど、この得体の知れない人でも俗物的な欲求があるのだなと、何となく親近感がわく。嶋野組にお似合いな暴力的な言動も見かけるが、意外にも年賀状の枚数を気にするタイプらしい。少しおかしくて頬がゆるみ、そういうのならば出してやってもいいかと考え直した。
「俺、真島の兄さんの住所知らないっす」
「教える教える。俺も送るから桐生ちゃんの住所教えて」
「はあ」
そうして住所を交換した桐生は、コンビニで酒とともに年賀状を購入した。幼いころに風間宛に出す程度しか年賀状を書いたことがない桐生は、何を書けばいいのかさっぱりわからず、お決まりの挨拶と、とってつけたような「今年もよろしくお願いします。」の文字を書いてポストに投函した。以後、毎年の恒例となった。
「どれにしようかなあ」
色とりどりの絵葉書――印刷された年賀状を見比べながら遥は悩ましい声をもらした。クリスマスソングと年末年始の音楽で忙しいショッピングモールでは、年賀状の案内が飾られている。
最近の年賀状はすでに絵柄が印刷されたものが用意され、追加料金を払えば宛名まで印刷してくれるという。学校の友達に年賀状を送りたいという遥に絵柄を選ばせてやりながら、桐生ははたと思い出した。
奇妙にも始まった年賀状の交流は桐生が刑務所に入ったことで打ち切られた。出所後も真島は相変わらずと桐生に絡んできた。
人間も街中も何もかも変わった中、真島だけは変わらずにいたことに安堵すら覚えたものだ。
顎をさすり小首を傾げた桐生に、遥は不思議そうに目を瞬かせる。
「おじさん。どうしたの」
「いや……。昔は真島の兄さんにも送っていたんだが、今年はどうしようかと思って」
「送らないの?」
「うーん」
昔は目上だし親戚だしと意識していたが今の桐生はカタギである。とはいえ真島には恩があるし、極道とカタギだからといって関係を絶つのも薄情な気がした。
「迷うなら送ったらいいんじゃない?」
「そうかあ?」
「だって仲いいんでしょう?」
仲がいいと言われるとむず痒い気分だ。自分たちの関係がイマイチよくわからない。旧友と呼べるのか腐れ縁と呼ぶべきなのか。ただの友達というのもしっくりこない。――赤の他人というほどの遠い関係でないのは確かだ。
「真島のおじさん、きっとよろこぶよ」
「……そうかもな」
流石に昔のように年賀状があまり届かないということはないだろう。が、彼の性格上舎弟たちからの年賀状で満足するようにも思えない。あんな狂犬が自分の年賀状に喜ぶ姿を思い浮かべるのは簡単で、なんだかおかしかった。
「じゃあ送ることにするよ」
くしくも来年は戌年だ。様々な犬の絵で飾られた年賀状を見つめて、さてどれにしようかと吟味する。
「遥はどうするんだ?」
「この犬の絵が描いてあるヤツにする。それでね、あけましておめでとうって書くでしょ。それから学校でもっと遊ぼうねって書いて、シールも貼るの」
最近の遥のブームはシールだ。学校で流行っているらしくお小遣いでちまちまと集めている。
「なるほど。そりゃあいいな」
年賀状というものはそう書けばいいのかと、今になって学んだ気分だ。友達同士で年賀状なんて小学生時代でもやったことがない。つくづく悪ガキだったと苦笑する。
「じゃあ俺もシールでも貼るか」
右端に「謹賀新年」と書かれた年賀状をとりながら、遥の案に乗っからせてもらう。
「おじさんもシール持ってるの?」
「プリクラもシールみたいなもんだろ」
撮るだけ撮ったままのプリクラが家には山のようにある。いまが使いどころだと踏んだ。あとは適当に新年のあいさつを書けば文句もあるまい。
「あ。そっかあ。私もそうしよっかなあ」
「これから撮りにいくか?」
「うん。たくさん落書きしようね」
「そうだな」
いつも時間制限におわれてもたつくが、最新機器への順応が早い遥がいればそれなりに楽しめるはずだ。
こんな年末年始も久しぶりだ。極道時代は忙しくて楽しむ余裕はなかったし、刑務所ではお節がでるくらいしか楽しみが無かった。
まさか年賀状で楽しみを見つけるとは思いもしなかった。きっかけが真島というのも不思議な縁を感じる。
極道とは縁を切ったつもりだが、彼との交流はまだまだ続くのだろう――いや、続けていくのだろうと予感があった。
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